ルイヴィトン 財布 ダミエ グラフィット
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null  3「日本は奇妙な国です」  ロサンゼルスを発って十九日目の七月二十四日午後三時過ぎ、あらびあ丸は横浜に入港した。  しかし二重国籍でない、つまり日本国籍を持たないアメリカ人のアイバは、日米関係がさらに悪化していた当時、旅券もビザもなく簡単に日本上陸を許されるはずがなかった。ビザをもらうのにさんざんてこずらされ、やっと許可がおりたのは書類に必要な印紙を売るオフィスが閉った後だった。結局その晩はまた船中で一泊させられ、翌七月二十五日、下船となる。  日本での初経験は決して快いものではなかった。そのうえ初めて経験する日本の蒸し暑さは耐え難かった。横浜埠頭には叔父服部を初めとして従兄妹、又従兄妹まで大勢の、初めて見る親類が出迎えに出ていた。  アイバは多くの荷物を手に、初めて電車に乗ると世田谷区の服部宅へと向った。電車の中はやたら蒸し暑かった。自動車生活しか知らぬ身にとって、これはいささかきつい経験だった。それでも、さすがにどちらをむいても日本人の顔ばかりで、日本の初印象は「ああ、こんなに大勢の日本人がいる」という単純な驚きだったという。  叔母のシズは、当時の食糧難による食事制限が反対に作用して、思ったより元気だった。母に瓜二つだった。従兄妹たちのなかでは、一歳年下のリン子が背丈といい顔つきといいアイバに不思議なほどよく似ていて、すぐ仲良しとなった。服部は、幾人もの職人を使って洋服屋をやっていたが、遵とは違って引込み思案で静かなタイプだった。だが、気持の優しい人柄で、彼なりにアイバの頼りになろうと努めた。 「私には日本という国がとても奇妙に感じられた。すべての日常習慣が変わっているだけでなく、食べ物もぜんぜん違うし、着る物や家の使い方も違う上、人びとはかしこまっていて、とてもフォーマルに見えた」(前掲ステートメント)  ここではアイバの大学教育も無に等しく、すべて一からやり直しだった。シズとリン子はそんなアイバに、家にはきちんと靴をぬぎ揃えて上ることから、畳での坐り方、食事作法を一生懸命教え込もうとした。またアイバの日本語がほとんど役に立つものでなかったので、彼女が外出する時は必ず誰かついて出た。それを嫌って一人歩きくらいできるようになりたいとねがったアイバは、九月から芝・御成門にあった松宮日語文化学校へ午前中の二、三時間、日本語を習いに通いだした。  アイバは高校時代に週一度(土曜日に二、三時間)、近くの日本語学校に通ったが、成績が悪くて半年も続かずやめていた。遵は英語の読み書きが達者だったので、父とは英語で話した。母のフミも上手ではなかったが英語を使い、彼女が日本語を使う時でも子供たちは英語で受けこたえしている。そのため、アイバの日本語は他の二世と比較して実に下手だった。聞く方は多少分るが、話す方はまったくお粗末で、ましてや読み書きはまるでできなかった。アイバにとって日本が奇妙に見えた以上に、彼女を迎えた服部家の人びとにとって、彼女が「日本人のような顔つきはしているものの、中身はまるっきり異質の、とても奇妙な二十五歳の女性だったに違いない」と、彼女は語っている。  服部家の人びとは彼らなりにアイバの身を案じ、できるだけのことをしようとしてくれた。アイバの配給は九月より取れていたが、ご飯嫌いでほとんど手をつけない彼女を心配した服部が、当局とかけ合い、十月からアイバの分をパンに切り替えてもらって彼女を喜ばせた。従兄妹たちには同年輩の者も多く、彼女の友だちになろうと努めてくれた。しかしアメリカ育ちのアイバには、彼らがおかしいといって笑うユーモアとか、楽しいといってすることがぜんぜんピンとこないのだった。  彼女の日本での戸惑いは、見知らぬ外国へ行った誰もが経験する外国人としての困惑ではあるが、一九四一年の日米間の生活水準の違いは大きく、そのうえ重要なことは、彼女が来日した当時の日本がすでに戦争下にあり、しかもその状態が五年も続いていたという事実だ。その結果、一般大衆にすべての皺寄せがきていた。  この生活状態の悪さはショックだった。なかでも日本食嫌いの彼女が一番こたえたのは食事だった。 「この三カ月近く毎日同じような朝食を食べています。ご飯、味噌汁、お漬物、お茶で、馴れてきたといいたいとこですが、自分の家族と一緒にトーストと紅茶の簡単な朝食をとりたいと思い、一日たりとてみんなのことを思わぬ日はありません」  これはアイバが一九四一年十月十三日付でアメリカの家族に宛てた手紙である。彼女はこれをアメリカへ帰国する日本語学校の友人に託している。近くすべての海外向け郵便物は検閲になると聞いていた彼女は、その前に正直な日本の感想を家族に伝えておきたかった。特に彼女は、来春調子がよかったら日本に里帰りしたいといっていた病身の母へ、日本の現状を伝えておきたかった。