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null 高次も万次郎の指導下で舵を取った。小さいときから海に生きてきた高次は、数日間で風を読み、波を見て、咸臨丸を正確無比に航行させられるようになった。それは暗夜のマスト登りも同じであった。ブルックがいったように航海術の上達は、荒海での経験の積み重ねであることが、太平洋を横断して身にしみてわかった。  咸臨丸を進める高次の胸に、ふたたび塩飽衆の誇りが立ちかえってきた。  高次は日本が近づくにつれて、アメリカでの強烈な印象が、より強くなってくるのを感じた。それまで高次の見た異世界は、長崎出島のオランダ人だけだったが、新興国アメリカの底力は凄《すさま》じいものがあった。港を走る無数の蒸気船、蒸気で動く巨大な製鉄工場、清潔な大病院、模型で見た蒸気で陸を走るという機関車、どれをとっても日本は足元にも及ばないものばかりである。  とくに高次の心を強くとらえたのは、誰でも大統領になれるというアメリカの自由な身分制度であった。日本では生まれたときから、徳川幕府の不当な身分制度に縛りつけられていて、漁師は死ぬまで低い身分から脱け出せない。そのために高次はアメリカの自由な身分制度が、よけいに素晴らしく思えた。  当直明けになると、高次はアメリカで見聞したことを書きつけた日誌を開き、さらなる感想を書き足した。メーア島の海軍司令部で見た、細い鉄線の中を雷《いかずち》が走る電信機という機械は、いまだに理解できなかった。万次郎は雷と同じ電気というものを使って、鉄線の中で互いに言葉を伝え合う機械だと説明したが、日本人乗組員で電気という概念[#「概念」に傍点]を理解できる者は誰もいなかった。  万次郎は「ダゲレオ写真機」という人の姿を吸いとる機械を買った。アメリカ人の写真技師から、撮影法をくわしく学んだ万次郎が、その機械で高次の姿を写してやるといったが、高次は魂を抜き取られそうな気がして逃げ出した。  アメリカ人は日本人が想像できない数々の機械を作りだしていた。高次がそうした機械以外でとくに感じ入ったことは、アメリカ人が日々の暮らしを、心から楽しんでいることだった。七日に一度をサンデイと呼んで休日にして、家族ともども緑の芝生で食事をする。日本では考えられない習慣だった。食事は肉も野菜も豊富である。高次はそんなアメリカに近づくための海の仕事がしたかった。万次郎は捕鯨がいいといった。捕鯨もおもしろそうだと思ったが、勝の考えを聞きたかった。艦長として公用で多忙だった勝とは、サンフランシスコで話ができず、将来を見通す力をもった勝がアメリカを見て、これから日本でなにをなすべきか、考えていることを知りたかった。  甲板の見回りに歩いてきた勝に高次は尋ねた。 「勝艦長。わしは日本に帰ってから、どんな仕事をしたらええのでしょう」 「おう高次か。いいことを訊《き》くじゃねえか。どうやらお前もアメリカに行って、すこしは物を見る目がついたようだ」  美しい夕陽の沈む太平洋を見ながら勝が語りはじめた。 「おれは軍艦で交易することだと考えている。日本がアメリカと肩を並べる国になるには莫大《ばくだい》な金がいる。だが日本は米と麦と大根しかねえ貧乏国だ。これじゃ百年かかってもアメリカには追いつけねえ。だからなによりもまず開国して、軍艦でどしどし海に乗り出して、交易するしか手はねえんだ」 「万次郎さんは捕鯨がいいといっておりました」 「軍艦も捕鯨も同じだな。つまり海から銭を稼いで、日本を生まれ変わらせていくというわけだ。アメリカでは木樵《きこり》の倅《せがれ》でも大統領になれるが、日本は将軍一人を守るために、上から下まで右往左往してやがる。そんなことじゃいけねえ。これからはお前さんたちのような世界を見た海の男が、軍艦で外国に乗り出していくことだ。そのために高次も海の仲間をこしらえることを、せいぜい考えておくがいい」  勝はサンフランシスコ滞在中に、造船所、鉱山、造幣局などを見てまわった。とくに勝の興味を引いたのは、サンフランシスコ市の議会政治であった。議会では市民に選ばれた議員が壇上に立ち、自分の意見を堂々と演説する。それを聞いた別の議員が挙手をして立ち上がり、まっこうから反対意見を述べる。熱気にみちた議会では、物ごとの是々非々が納得いくまで議論され、相手の立場を尊重しつつ、是か非かの結論を出す政治が行われていた。そこには自由で平等な空気が満ちていた。日本は家柄だけが重んじられ、無能でも幕府の老中や若年寄に任じられる。そういう身分制度に縛られて行う形式的な徳川幕府の評定所では、考えもつかない光景であった。  その勝が、日本をアメリカに追いつかせるために考えた第一の仕事が、軍艦で海外に乗り出して交易することだった。そのために高次に海の仲間をつくれという。高次は万次郎の捕鯨にしろ勝の軍艦にしろ、なすべき海の夢の形が見えてきた気がして、日本に帰るのが待ち遠しくなった。